ヒトはなぜ「焼身自殺」を喜んでシェアするのか?
2014年6月29日、新宿駅南口で焼身自殺が図られるという事件が発生した、とのこと。
■新宿南口で男性が焼身自殺図る 「集団的自衛権の行使容認に反対」演説後
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140629/dst14062916150005-n1.htm
当該の男性は幸い一命は取り留めたようだが、なんとも居た堪れない事件である。
さて、この男性が主張した「集団的自衛権の行使容認」の是非についてはここでは語らず、今回の事件のネットでの反応について語りたい。
NAVERまとめに取り上げられているのだが、この焼身自殺のまさに真っ最中、男性が火に包まれている場面の写真がネット上に広く拡散している。
■【画像集】山手線 新宿駅南口 歩道橋の上に座り込む人 飛び降り自殺か? 火を付け焼身自殺 6月29日
http://matome.naver.jp/odai/2140401563937718401
「おっさんが橋の上で拡声器でガナっているんですけど」とか「すごい人混みで超メーワク」とか「なんか火事なんですけど」などの内容ならまー仕方ないかな、とも思わないわけでもない。状況や事情が分からないわけだから。
ただ明らかに「焼身自殺」と分かる場面で、手元のケータイやスマホでその様子の写真を撮る、という人の行動が理解できない。
ヒトが今目の前で死ぬかもしれないという状況なんだよ?それを嬉々と喜んで写真を撮ってしまう無神経さ。テレビドラマの撮影かなにか、と思っているのだろうか?
確かに「自殺」の場面に出くわすことは人生の中でそう体験することではないので、その「非日常感」から、目の前の自殺と自分の「リアル」が結びつけるのが難しい、という感覚も分からないでもない。
で、100歩譲って焼身自殺の現場を写真に収めることを良しとしよう。だからといって、それを Twitter や facebook でシェアする、という精神構造はまったく理解できない。
そんなに「ヒトが死ぬ」ということは面白いことなのか?人に自慢したいことなのか?
「非日常」に出くわしたワクワク感を誰かとシェアしたい、という気持ちはソーシャルメディアの一つの特徴ではあるが、その「非日常」というのは、「美味しい料理を食べた」とか「テーマパークに遊びに行った」とか「海外旅行をした」とかそういう非日常である。それは決して「ヒトの死」ではない。
「ヒトの死」が日々の日常からあまりにも遠ざけられてしまっている現代がゆえ、「ヒトの死」がリアルに感じられず、「イベント」の一つか何かくらいにしか感じられないのだろう。
我々はソーシャルメディアを使いこなす中でそういう感覚がどんどん麻痺していっている、ということは常に強く意識しておくべきだろう。
追伸:
結果的にではあるが、この焼身自殺を図った男性の主張は、単に新宿に居合わせた人々だけではなく、ソーシャルメディアを介してより多くの人に知れ渡ることになった。そういった意味ではこの男性の目標は達成されたであろう。
ただ、本来の伝えたかったであろう「集団的自衛権の行使容認反対」という主張はどこまで一般市民に理解されたかは甚だ疑問である。